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『雑感』

稀に更新します。

映画『メランコリア』感想

 

衝撃の問題作『メランコリア

賛否両論で知られ、コアな映画ファンからの絶大な人気もあれば、お馴染みウェイン町山こと、映画評論家の町山智浩さんは酷評というあまり類を見ない作品。

 

今回はところどころネタバレを含めて自分なりの解釈を載せていきます。

 

ダンサーインザダーク』で知られるラース・フォントリアー最後の映画祭出展作品。

世界の終わりをテーマに『スパイダーマン』のМJ役で知られるキルスティン・ダンストが主人公ジャスティンを務め、シャルロット・ゲンスプールがその姉クレア、クレアの夫で科学者のジョンをジャック・バウアーことキーファ・サザーランドが演じ、脇は「またしても」ステラン&アレキサンダー・スカルスガルド親子が固めています。

 

前作「アンチクライスト」同様に鬱病による「精神」がテーマに挙げられており、当初はペネロペ・クルスと考案していたが「パイレーツ」へ出演するため彼女は降板(クレジットには名前がある)し、同じ鬱病に苦しんだ元アイドル女優のキルスティンが選ばれた形です。

 

このところ「フリーター家を買う」や「ツレが鬱になりまして」等、この病気をテーマにした話は多いですが、今作は「鬱病の人」に焦点を当てるのでなく、「周りとの対比」に重きを置いている感じが見られます。具体的にどういうことか。近年鬱病は非常に自分にも人にも被害がみられる大変な病気として取り上げられることが多いわけですが、それをテーマにした作品はほとんどが患者とその世話役に焦点を当てているもの。しかし今作はむしろ患者よりもその周りの「普通」と思われていた人間がどんどん「普通」じゃなくなり…というテイスト。

主に映画の前半は妹ジャスティン、後半は姉クレアが物語の中心です。

 

ドラゴンタトゥーの女』では「オープニング3分大賞」受賞と書きましたが…

この『メランコリア』は「オープニング8分大賞」受賞作品かもしれません(笑)

とにかく芸術的。「トリスタンとイゾルテ」の調とともに幕が開き、破滅前の静止した世界。1分間の「美彫刻」を鑑賞した後は物語の「鍵」ともいえるシーンが、スローモーションで映され、世界が終る一部始終を魅せられます。この時ジャスティン、クレア、子供の3人がバラバラに配置され立っているシーンは特にこの映画における対比表現として大事になってくる暗示を見せてます。

 

さて前述のとおり物語は2部構成となっており、一部ではまず主人公の結婚式での様子が描かれます。最初はアレクサンダー演じる婚約者といちゃいちゃしているものの、周りの空気を読まないその様子を心配する姉クレアの夫ジョンが会話を交わしながら式のプログラムが進んでいきます。怪訝な表情の夫をよそにクレアはかつて精神を病んだ妹の幸せな表情に安堵し自分のことのように喜んでいるわけです。この時点で姉【妹の幸せ=私の幸せ=私=妹】の構図が完成し、夫ジョンが異常者を嫌い科学を絶対とする裕福な学者、父親は妻の前で平気に愛人を並べ、他方の妻は無神論者にして社会性に欠けた人物・・・とすればこの家族全体の異常さが見えてきます。この時点でなんとか「がんばろう」と一番努力しているのは他でもないジャスティンというのがまた面白い所でもあります(笑)。しかし結局式のメインイベントともいえる両親への手紙を読む時の母親の粗暴な一言が原因で徐々に憂鬱になっていく。次第に婚約者の愛にも理解を示せなくなり、幸せの結晶ともいえるウエディングドレスは着ては脱いで着ては脱いでで灰色に汚れていく。パーティーは最悪の結末を迎え、空には不気味な星が赤々と輝いている。

 

よくテレビで見られる鬱病患者といえばパニックを起こし「死にたい」と口にするのが典型的かもしれませんが、このジャスティンはとにかく落ち着いています。恐ろしいくらい落ち着いています。彼女にとって「自分のすべて」ではなく「他人のすべて」が無関心なだけであって、ここで彼女が「鬱」であって「鬱」でないような存在であると観客である私たちはかんがえてしまいます。「メランコリック」の意味は鬱の他にも「陰気」「もの悲しい」という意味もありますね。彼女を「鬱」に仕立てるのは彼女を「鬱」だと思い込んだ姉夫婦であり婚約者であり上司であり…なのです。こうして彼女はついに本当の(テレビドラマで見られる)鬱病に陥ってしまうのです。

 

2部では鬱になったジャスティンをクレア家族が介護している形で始まります。

このシーンからのキルスティン・ダンストは「スパイダーマン」や「チアーズ」の顔はもうありません。いや、驚きました。僕はそこまで英語は得意じゃないので、セリフ遣いのすべてまではわからないですが。そして赤い惑星「メランコリア」の接近とともに家族の様相、立場がどんどん変わっていく。科学者のジョンは「メランコリア」は絶対に衝突しないと言い切る。しかしクレアが信じないのを説得するためにある「非科学的な」方法でメランコリアが遠ざかっていくのを立証しようとするシーンはいざというときの科学に対する信用の無さを際立たせ、さも今日の日本における「原発問題」にも通ずる部分があります。浮き足出し始める大人をよそにジャスティンとクレア夫婦の息子レオは惑星衝突から身を守るための「バリアー」を作ろうと話している。この頃から変化の兆しが見え始めます。だんだんと運命の時は近づき。

 

「地球滅亡」という大事の時に人はそれまでの人柄じゃ考えられない言動や行動を生み出す、「普通」が「異常」になれば反対に「異常」は「普通」に変化する。トリアーならではの人の精神構造が色濃く描かれています。またこの章における主人公ジャスティンの落ち着きようはこの映画に限らず他の「滅亡モノ」のどの主人公よりも凄いです。真昼間に青く光るメランコリアを川辺に全裸で寝そべり、まるで会話を交わすように見つめ、ほほ笑むジャスティンの姿は芸術的にすら感じます。もちろん芸術性はこの映画において至る所に見られ、その最たるシーンが冒頭であるのは間違いないですが、やはり人類滅亡という極限状態である後半にものすごく「芸術性」を持たせる演出がなされているのはすごく評価されていいように思います。そしてこの時画面に映るすべてのものがとにかく美しい!!これに尽きます。ある意味観客である私たちが「陶酔感」という「異常」状態に陥いってしまうからなのかもしれませんが、だとすればそれはやはりこの映画のすごい所!!と、言えると思います。・・・クライマックスに向けて主要キャストの行動が非常に興味深くなるのも面白い個所であります。その部分に関しては敢えて難しく描かれていないのもいい所です(もちろんそれまで観客の想像力をフルに掻き立てていたわけでありますが)

 

この映画にはこの映画の題材ならではの人間はもちろん登場しません。戦っている人がいるのは想像できますが、少なくとも映像にも言葉にもそれは出てこない。つまり話だけ見るとすごく静かな滅亡旦なはずなのです。それを大音量の「トリスタンとイゾルテ」しかりスローモーション等の映し方しかり様々なギミックが静かさを補うどころかパニック物以上の迫力と印象を与えてしまい、かつ私たちの想像力が物語の伏線達を呼び起こし、完全に「メランコリア・ワールド」へ誘われてしまう、これがすべてです。後はこの映画を「生かす」も「殺す」も見ている人次第。もちろん全体を冷静に見るとすごく「不協和音だらけ」の映画ではあります。登場人物に不要な人物も多く、外的要素がいささか強すぎる部分がパーティーシーン等に感じられました。

 

この映画を「面白く見る」には、「受け入れる」準備が必要です。そして冒頭の8分は私たちを陶酔させる作戦であり猶予といえるのかもしれません。是非この映画を面白く見たいならその罠にかかりに行くことをお勧めします。

 

僕はこの映画を見て本当にラース・フォントリアーという監督がますます「嫌い」になりました。映画祭での問題発言などもこの映画を見たらその真意が分かる気がしてきたからです。頭の良さ、作調、演出、そのすべてがすごいのは認めます。認めますが、やっぱりむかつく!!だからこそ次回作も期待して(主要映画祭出られなければ是非東京へ)このレビューを終えます。